小説を読んでいて作者視点が入っていると感じる瞬間

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目次

はじめに

ネット小説などを読んでいると、たまに作者視点が入っているなと思うことがある。

どういった文章を読むと、作者視点と感じるのか、そこらへん自分の中で、きちんと言語化して説明したい。

※外部参考サイト:三人称の「純粋な、完全な作者視点」をおさえる。(小説の作法)

まあ、私は、人の文章を批判できるほど、自分の文章能力は高くないのだが……

ここ最近読んでいて、かなり作者視点が入っていると思った作品として、小説家になろうで掲載されている、「ポンコツ魔術師の凶運」「J/53」(作者:池金啓太)という作品かな……

作品(J/53)の特徴

最終更新日:2015/04/05 00:00 読了時間:約8,987分(4,493,293文字)

「小説家になろう」には40万作品以上ある中で、文字数の多い順で並べると、現在第17位。(2016年8月時点)

文字数という観点で屈指の戦闘力を誇る作品。(戦闘力449万)

多くのネット小説は、異世界を舞台にした作品の中で、珍しく、現代異能系を扱っている。

キャラはきちんと作りこまれている。久しぶりに登場するキャラでも、このキャラって、誰だっけとはならない。少なくとも、キャラクターの性格はきちんと伝わる。

また、状況説明がきちんとされ、誰が、どこで、何をしていえるかわからなくなることはない。

一応言っておきたいこと

「J53」は、割と連載初期から読んでいて、一応最後まで読み切った。現在連載している「ポンコツ魔術師の凶運」も楽しんで読んでいる。

まあ、何が言いたいかというと、私は、中身を見ずに作者視点が入っているといっているわけではない。

あれだけの文章量を毎日更新していている作者の文章生成能力の高さに、正直言って脱帽する。10分の1でいいからその才能を分けて欲しい。

作者視点とは?

登場人物が、劇の舞台にいるとすれば、作者視点とは、座席からその劇を語るような視点。

あるいは、テレビの中で動いているキャラを、テレビの画面越しで見ているような視点。

あまり「作者視点」の説明ができていないな……

(※うまく説明できるようになったら書き足す)

作者視点を感じる要因

本来小説は物語に登場するキャラクター(主に主人公)に感情移入してもらいたいと多くの場合考えている。

しかし、視点の置き方がキャラから離れすぎると、感情移入する対象が主人公でなく、作者になってしまう。

キャラでなく、作者に対して、感情移入した時、人は作者視点と感じとる。

また、1人称でなく3人称の方が、作者視点が意図せず入り込みやすい。

1人称の場合、視点の対象となっているキャラの心情や見たものしか書けないので、作者視点が入り込む余地がない。

逆に、3人称はややもすると作者視点となってしまう。

作者視点が入り込みやすい表現

人物に対する評価

キャラクターの性格を地の文で言及すると、下手をすると、作者視点と感じ取られる。

特に、主人公の人物評価を書くのはまずいレベル。

なぜなら、多くの作品は主人公の近くに視点を置く。そして、その主人公の性格を地の文で客観的に語れるのは、主人公自身を除くと、作者以外はいないからだ。

無論、主人公が自分自身の性格を語るというのもありうるが……

※主人公の性格は物語を通して伝えられるので、わざわざ語る必要は薄いと個人的に思う。

市販されている作品だと、
キミが誘う境界線1 そのナマクラはよく斬れる<キミが誘う境界線> (富士見ファンタジア文庫)

この作品の序盤は、かなり作者視点を感じた記憶がある。

ギャグセンスという観点ではクオリティーが高い作品ではある。(笑いという観点では、今まで読んだ作品の中で、十本の指に入ると思う)

 

 

キャラクターのセリフ・行動に注釈をつけている場合

キャラクターのセリフの意図を地の文で解説した場合、読者はいったい誰が、解説しているのか考える。

そして多くの場合、行き着く結論が作者ということになる。

うまくやれば、主人公が解説しているように書くことは不可能でない。

世界観・世界常識の説明

ファンタジーなどで、物語の設定を説明が入るときは、どうしても、作者の視点が入り込みやすい。

そのため、多くの場合、登場キャラに世界観を説明させたりする。

作者視点を和らげる案

物語に積極的に参加しない傍観者サイドのキャラを作り、そこに視点を置く。
そして、そのキャラに世界観の説明などの解説役を押し付ける。

あるいは、主人公自体を傍観者に近い立ち位置に持っていく。

作者視点はいいことなのか?

個人的には、あまりいいことではないと思う。

なぜなら、読者としては、キャラに感情挿入することを望んでいるのに、作者に感情移入してしまうことになっているからだ。

とはいえ、日本が誇る偉大な作家のひとり、芥川龍之介の『羅生門』は完全に作者視点をぶち込んでいる。

ここまで露骨に作者が作品に登場するのは珍しい。

※青空文庫でタダで読める

作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

作者視点が絶妙に融合した作品

個人的に、作者視点がうまい具合にフィットした作品を「小説家になろう」で見かけたことがある。

「ハルジオン~口だけ野郎一代記~」(作者:曖昧)

※序盤と終盤で、作者文章レベルが大きく違う。序盤だけ見て、ブラウザバックするともったいない。

主人公(紫苑)の行動を地の文で作者がコメントするが、このとき、作者が、紫苑の軽率で自己中心的な行動を批判する。それが絶妙に面白い

何ていえばいいのだろうか……自分の書いた作品にセルフ突っ込みしている感じの作品。

傍観キャラであるカス蛇もいい味を出しており、独特な世界観を持つ良作。

作者視点で思ったこと

普通に3人称の文章を書いたときに、自分では主人公に寄り添った3人称だと思っていても、他人から見ると作者視点と思わてしまうことがある。

文章の書き手をしては、紡いでいる物語がフィクションであることを頭の片隅で理解しながら書いている。その心の片隅にあるどこかでフィクションだなという思いが、物語の舞台から一歩引いた視点となってしまう。この一歩引いた視点が作者視点と思われてしまう原因なのかもしれない。

私、この記事の序盤に、作者視点とは、「テレビの中で動いているキャラを、テレビの画面越しで見ているような視点」と書いたが、作者視点と思われないためには、テレビの壁を越えて、物語の中に入り込む想像力が必要なんじゃないかなと感じた。

あと、主人公に寄り添った3人称視点の場合、主人公の視点に対して、きちんと読み手に共感させる力が肝要なのかもしれない。

 

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