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目次
時の経過を示す手法&
読者の視点を引き込む手法
この記事では、芥川龍之介の作品を扱う。
作品を通して、
1:時間の経過をさりげなく示す手法
2:読者の視点を、惑わすことなく、物語の世界へつなげる手法
を紹介したいと考えている。
『羅生門』
日本人であれば、芥川龍之介の『羅生門』を
教科書を通して一度は読んだことはあるはずだ。
著作権が切れているので、青空文庫で、無料で読むことができる。
(→こちらへ)
蟋蟀が登場するのは2回。
1回目は、
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
2回目は、
下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。
ここで、1回目と2回目の間。つまり、蟋蟀が止まってから、飛び立つまでの間、それなりの時間経過があったことを察することができる。
羅生門に出てくる蟋蟀の役割は、
他にも、季節(秋)を示す役割はある。
(蟋蟀の役目として、羅生門の索漠とした感じを出すという役割もしている意見もある。
だが、私自身は、このような意見に対する明確なコメントは避けたい。
私が確信して言えることは、蟋蟀は季節と時間経過を示す役割をしているのは、正しいということだけだ。
自然が残っていた昔の時代はともあれ、現代という時代で、私も含め蟋蟀をうまくイメージできない人は少なからずいると思う。
そんな私が、蟋蟀が、羅生門の荒れ果てたイメージを補強しているという意見を出しても説得力がないだろう。)
『蜘蛛の糸』
『蜘蛛の糸』も同様、青空文庫で無料で読める。
5分程で読み終えられる短い話。
『羅生門』と同じく、人間のエゴを描いた作品と考えられている。
この作品にも時間の経過を示す工夫がされている。
(→こちらへ)
朝から午へ
書きだし、
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
終わり、
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
物語の最初で、朝であることを示し、
物語の最後で、午(ひる)に近くになったことを示している。
最初と最後の文章の意義
ここで、一つ疑問に思うことがある。
私が引用した最初の部分と最後の部分、
この部分を削ってしまっても、物語として普通に成立するように思える。
つまり、この場合、
2番目の段落の「やがて御釈迦様」の「やがて」までを削って、
「お釈迦様~」でスタートして、
「浅間しく思召されたのでございましょう」
で終わる形。
では、なぜ芥川龍之介は、このような場面を書いたのか?
一つの意見としては、地獄との情景と対比したかったのではないかという意見がある。
間違ってはいないのだろう。
だが、それよりも、物語の枠組みを規定したかったのではないかというのが私の意見だ。
削ったパターンだと、
唐突に「御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、~」
とスタートする。
こうなると、読者は、どこに視点を設定すればいいのかまごつく可能性がある。
それを防ぐために、最初の文章を書いたと考えられる。
この最初の文章が、物語という舞台において、どのような時間設定で、どのような場所なのかという枠を規定している。
この枠を最初に決めておくことで、物語がスッと入れるような役目を果たす。
例えば、
「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました」
という一文も物語の枠だ。
時間:昔
登場人物:おじいさんとおばあさん
場所:あるところ(抽象的な規定)
を明示することで、読み手に心構えをさせ、
読者を物語の世界へいざなうことができる。
漫画でも、書き出しにいきなり主人公を描くのではなく、
最初の1、2ページは、物語の舞台を描いているのを見かけたことがあると思う。
それと似たような役目だ。(ちょっと違うかも?)
一方、最後の文章は、
物語の世界から現実の世界へ、
物語に焦点を結んでいた視点を、ゆっくり遠ざける。
そんな役割をしているように、私は感じます。
『蜘蛛の糸』は3つの章から成るが、
メインは2章で、1章と3章は枠組みでしかないという解釈もできます。
『羅生門』の視点
枠という観点で、『羅生門』を考えてみると、
最初の
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
と
下人の行方は、誰も知らない。
は呼応しているのかもしれない。(断言するほど自信はないが……)
つまり、『羅生門』は物語の枠組みとして、
羅生門という舞台にして、
下人がいる状況から下人がいなくなるまでの状況
を描いたと考えられる。
文章の視点という観点でも
最初の数段落をかけて、
文章の視点は、ゆっくりと下人に近づけている。
そして、物語の中盤では、常に、下人に寄り添う形で、視点はある。
一方、最後から二番目に段落では、老婆の方に視点が移る。
最後の一文、
下人の行方は、誰も知らない。
この文章で、
老婆からも視点が離れ、最後は神視点になる。
(こう考えると、羅生門の視点は、かなり節操がないように感じる。
序盤には、作者の視点もひょっこり登場している点とか。)
まとめ
- 事象の変化していることを描写することで、時間の経過を表すことができる
- 枠を利用することで、読者の視点を明らかにして、なめらかに物語の世界に接続できる
参考
枠について知りたい場合は、
『1週間でマスター 小説を書くならこの作品に学べ!
小説のメソッド〈2〉実践編』
奈良 裕明 (著)
の第七日目を参照してください。
(この記事を書くにあたって、大いに参考させてもらいました)
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